文豪の永井荷風はご存じですか?荷風について様々な視点から紹介します。

荷風の生活と俳句・日記の結びつき

 

荷風は小説だけに限らず、俳句日記などさまざまなかたちで自身の文章を残しました。

彼がいろいろな興味を抱いていた象徴ともいえるでしょう。

彼が俳句を愛する理由とは

荷風が生み出す俳諧や日記には、彼の生活そのものを映し出しており、荷風独特な特徴をそのまま知れる材料になっています。彼は自分の日常の様子やその時感じた感情を素直な文章で書き記したのです。

 

実は彼、和歌ではなく、狂歌や俳句を好んでいました。和歌は典型的な詩が特徴で優美で正統なかたちが思い浮かびますが、彼はその正統イメージの和歌とは外れた狂歌、少し滑稽さを持ち合わせたかたちを愛していました。

正統派をいかず、個性派を選んだのです。。

人と同じ行動をとる習慣が嫌い、社会への反抗も含んだ荷風の考えだったかもしれません。

 

彼は日常の中でふとした瞬間への小さな幸せを大切にしていました。

たとえば、家の庭の草花を見ながらほっこりする瞬間、星を見てきれいだなと素直に思う気持ちなど、ちっぽけだけどそれらの小さな幸せが人々にとって大切なんだと訴えました。

日本の社会の中では、これらの小さな幸せよりも大きなことばかりに目を向けています。だからこそ国家に合わせた幸せを考えるのではなく、自分が大事だと思う小さな幸せの瞬間を俳句に残しておきたいと思ったのでしょう。

 

彼にとっての日記をつける意味合いとは、

荷風の作品の中で、日記『断腸亭日乗』は有名です。

なぜ彼は日記をつけるようになったのでしょうか。。

 

戦争中であった当時、都合の悪い情報は世の中に出回ることを社会は避けていました。なので、国民の多くは社会が今どういうことになっていて、どの方向に進んでいるのかがなかなかつかめずにいました。

その中で荷風は日記というかたちで言葉を残そうとします。このような世の中だからこそ、今の社会の現状や自身の思いを素直に書き記そうと決意しました。

 


荷風の日記はかなり細かいところまで観察しているのがわかります。
女性の服装やファッションの流行、髪形、電車でのたち振る舞い、睡眠や食事、文明批評、人々の文字や言葉の使い方まで、幅広いところまで日記にしました。


日記の材料探しに、よく散歩に出かけて人々や社会の動きの観察を行っていました。

荷風が見ている風景は、都会のイメージである景観ではなく、何気ない道端の風景などがメインであるため、散歩の中で何気ない瞬間を大切にしていました。


荷風が残した俳句や日記は、彼の社会に対する訴えを示すものでありました。普段の日常生活のようすをそのままことばとして残したものは、彼自身のことを知れるとっておきの材料でもあり、当時の社会を裏表なく映し出してくれているものであったのです。

 

《参考文献》

●小野寺優『永井荷風 断腸亭東京だより』 河出書房新社 2014年9月20日
●持田叙子『永井荷風の生活革命』 岩波書店 2009年12月3日
●松本 哉『永井荷風という生き方』 集英社 2006年10月22日

 

荷風の女事情

荷風のイメージとして一番これが印象強いのではないでしょうか。

 

荷風の女好きな性格。。

 

「一人で生きていける人間なのに、女の人は必要としていたのか」

と思ってしまうのですが、荷風にとって女の人は自身の生活をサポートしてくれるための存在ではなく、人生を豊かにしてくれる存在であったのです。一緒に楽しくおしゃべりしながら過ごすことができたらそれで幸せ。一緒に自然や風景を見て楽しむのがいいという考え方でした。


そのような考えだから一人の女性に絞ることなく、あちこちの人に手を出しながら自分の生活を華やかにしていたのでしょう。。

彼は結婚に不向きであった

彼の結婚は二回です。

大正元年 当時荷風32歳。材木商斎藤政吉の次女ヨネとお見合い結婚。翌年離婚。
大正三年 当時荷風34歳。新橋の芸妓八重次と結婚。
八重次とは普通の恋愛結婚で、自分の意志で自由に結婚できたことに非常に幸せを感じていたそうです。

八重次との結婚については『矢はずぐさ』といったエッセイで記しています。


八重次は荷風と同様、芸術の分野で活躍した人物で、日本舞踊の改革に力を尽くした人でありました。知性もあるし、学習能力もあり家事もできる。まさに完璧な相手。
彼女はこのような人間だから向上心もありプライドも高かったのです。

荷風は芸術家として八重次のことを尊敬していました。芸術という場面で尊敬しあうことができることに良さを感じていたことでしょう。


ラブラブ結婚生活が続くと思いきや・・・

荷風と八重次には価値観の違いが多いにありました。

 

荷風がかなりのわがままだったのです。帰りが遅かったり好き放題自分のやりたいことをやる・・八重次は我慢の連続です。
八重次は結婚に対してもプライドがあったわけですから、我慢ばかりもしていられなかったのでしょう。

 

また子供は一切つくろうとしませんでした

 

子供ができたら子供を立派に社会に送り出さなければならない義務がある。。そこでどうしても社会の権力に従わなければならないときが来ます。このことにかなりの抵抗がありました。社会の権利ではなく、人間として生活するためには一人で生きるほうがましだという意志をもっていたのです。。

結局八重次とも離婚。これからは結婚はせず、自由に女の人と遊ぶようになります。

女性と付き合った人数は数えきれないほど

実は、荷風は愛人一覧表をつくっていたとか。。主な人でも16人の名前があり、どんな性格なのかを事細かくメモをしていました。本当は16人をはるかに超える人数の女性と接してきたらしいです。。今思えばかなり恐ろしい話ですね。。

芸名「永井荷風」の由来は初恋女性!?

実は、「永井荷風」の名前の由来も女性関係が絡んでいるのでした。

 

小説家の人間として生きるということは、本当の自分とは違った人物としての偽りも兼ねているわけですから、芸名がつかわれました。
名前を変えて呼ばれることにテンションが上がったりするのでしょうか。。


荷風」は初恋の話が元に生まれました。

初恋の相手というのは、荷風(本名 壯吉)が15歳の頃、腫物ができて大学病院に入院したときに担当してくれた看護師の人です。

その女性の名前は「お蓮さん」そこで「蓮(はす)」と同じ意味をもつ「荷」の漢字を使用したそうです。あちこちに女の人と関係を持ったはずなのに、一人の女性を生涯の自分の名前として付けたことについてはおかしな話ですが、

「こんなことにでも女性との結びつきが関係しているんだな」

荷風らしさを感じるエピソードです。

 

 

 

 

 

永井荷風の性格はどんな感じ?

永井荷風は孤独な生活を送り、独りでいることが多かったとか。。。

 

実際、「永井荷風」という人間はどんな性格だったのか、

周りにはどのような人間に見られていたのでしょうか。。

 

荷風という人間を説明するとしたら、、

自己中心的で、お金にはケチで人嫌い、だけど女の人は大好き、、といった説明がどうしても出てきてしまうのは事実なのです。あまりいいイメージには到底結び付かない言葉ばかり。。

荷風を勉強している中で、ユニークな荷風人間性には驚かされます。ここでは、永井荷風の生い立ちや性格についてもう少し詳しく話したいと思います。

 

父の期待を裏切った!? 

荷風ははじめから文学者を目指していたのではありません。落語家や芝居の脚本家になろうとした時期もあったようです。
23歳の頃に日本を出て、横浜正金銀行のニューヨーク支店に勤めていました。その後フランスへの憧れからフランス・リオン支店へ転勤。

銀行員としての人生を歩むかと思えば、、、彼は銀行の仕事に向いていないと勝手に辞表を出して帰国してしまいました。

荷風はこの外遊中、銀行員としての自分を磨いたのではなく、文学を一生の仕事とする自分に出会ったのです。

 

荷風が外遊中に記した日記『西遊日誌抄』(『荷風全集 第4巻』岩波書店 1992.7)
では、
余の生命は文学なり。課程の事情己むを得ずして銀行に雇はるゝと雖余は能ふかぎりの時間をその研究にゆだねる可からず。余は信ず他日必ずかの『夢の女』を書きたる当時の如き幸福なる日の再来すべきを。余は絶望すべきにあらずと自ら諫め且つ励ましたり」1905年12月8日  との記録がなされています。

荷風はアメリカやフランスの生活や文化に強い刺激を受けました。

 

荷風父親荷風を社会で働く人間として銀行員で働かせ、膨大な額を出してアメリカ支店に行かせたのにもかかわらず、彼が夢見る方向が変わったことに絶望感を抱き、失望。。

 

しかし、これに関していえば、ただの自己中心人間ではなく、自分の信念を持ち行動した人間として見れるのではないでしょうか。

 

人付き合いの悪さは異常レベル

 

荷風はだいたい何でも一人でこなして生きていけました。料理も洗濯も掃除も誰にも頼らないでも大丈夫。。買い物も面倒だけど維持でも弱音を吐きたくない。
趣味も三味線や読書、浮世絵など全て一人でできるものばかりです。


まずは、他人と同じ行動をとる習慣が苦手でした。多くの人が他人の行動を見て、軽々しく同じように真似をする。。そんな光景をあまり好まなかったのでしょう。
家族や親戚に頼ることもなく、作家仲間と仲良くすることもありませんでした。。

 

彼のような才能ある文学者になると、尊敬して寄ってくる文学者も数しれず。。
文学もろくに知らないのに、荷風とごはん屋の席とかたまたま出会って、「荷風さんにとって文学とは?」という論理にせまる質問をするのはNG!!

全く相手にされず不機嫌に帰ってしまうのであります。もらった名刺をその場でびりびりに破いたこともあったとか。。。

そこまでされたらかなり腹が立ちますよね。。

 

仕事の話は人前で一切しないというのが彼のポリシーでありました。
しかし、仕事に関係しない気軽な雑談は好きで、男女関係の話とかくだらないような話で盛り上がり、人とすこしの交流はしていたそうです。。

 

彼のこだわりに迷惑がる人も

彼は二回目の離婚を終えた後、一人で暮らしていたから、外食の機会も非常に多くありました。ここでも荷風のこだわりが満載です。
最晩年、市川の自宅に近い食堂「大黒屋」をよく利用してたそうですが、いつもいつも頼むのはかつ丼日本酒。

毎回メニューを見て悩むのが面倒だったのではとも言われています。

浅草の「尾張屋」ではかしわ南蛮ばかりだったそう。。

 

しかも、いつも同じ席にしか座らないらしい。。

 

他人が座っていると不機嫌になり、他の席が空いているにもかかわらず帰ってしまうこともしばしば。店員には文句をいっていて、

 

「定員はどれだけ荷風には気を遣わないといけないの!!」と思います。

 

マイナスイメージになるようなエピソードばかりを語ってきましたが、彼の性格を語るにはこれらが浮き彫りになることも仕方ないことでしょう。。

自分の考えの中で人と接し、日常を暮らしている彼の姿には関心します。

 

 

大学生活の中で永井荷風の研究に興味を持ち、様々な作品や先行研究、文献を読みました。

そこで得たわずかながらの知識を分かりやすく発信しようと思い、ブログを書いています。