文豪の永井荷風はご存じですか?荷風について様々な視点から紹介します。

荷風の芸術美は「寂しさ」から


性格、思想、趣味、生活風景、作品などなど

永井荷風個人主義として社会のやり方に縛られることなく、自己の自由と独立を支持しています。そして彼は孤独な生活へ・・・。

 


そのいきさつについて少し詳しく書きます。

 

書いた作品は発売禁止処分に?!

彼が23歳の秋からアメリカに四年間、フランスに一年間留学し自由な思想と開放的な外国生活を送りました。その頃、日本では日露戦争がおこるなどナショナリズムが盛り上がっており、軍人主導の忠告愛国主義の思想が定着していました。帰国後、留学先で得た自由な市民精神をもとに書いた『ふらんす物語』と『歓楽』が相次いで発売禁止処分を受けてしまいます。


これらをきっかけに彼の社会からの疎外孤独が始まったのです。荷風は国家の非情さと日本の風土の恐ろしさを痛感するわけであります。

 

荷風はかなりの寂しがり屋?

荷風は個人の自由を掲げているわけで孤独生活も平気かと思いきや・・・

 

実はかなり寂しがり屋で常に生活に、「寂寥感」を抱いていたのです。女性遊びが激しいことにも関係しているのでしょうか。。荷風自身も「悲哀寂寥とは尽きることない情である」と述べています。 

孤独である寂しさ、侘しさ、悲しみ、、さらに彼は生涯を通じて病気に苦しんでおり、病弱である辛さや苦しみが『断腸亭日乗』の日記にも多く述べられています。


そして荷風は小説を書く上でもそれらの感情を街の情景描写などと重ね、、「芸術の美しさ」を見出していったのでした。表現の仕方がとても趣深いのです。
『すみだ川』(『新小説』明治42年2月)では全篇主人公長吉の悲哀が描かれていますが、

「木枯の騒ぐ待乳山の老樹に傾く夕日の色はいかにも悲しい」
「隅田川の河面は悲しく灰色に光る」
という表現が見られます。

 

作品のほとんどが物語や登場人物は違えど、このような「寂しさ」「悲しみ」の感情をメインに構成し、荷風自身を重ね合わせ人々に訴えかけました。彼が発信する「悲愁哀甘美寂寥の情」が作品のかたちとして多くの人々に評価されたのです。

 

荷風は『雨瀟瀟』(『新小説』大正10年3月)でこんなことを述べています。

 

成り行きのまま送ってきた孤独の境涯が、つまるところわたしの一生の結末であろう。(中略)いつか身は不治の病に腸と胃とを冒さるるや寒夜に独り火を吹起こして薬飲む湯をわかす時なぞ親切に世話してくれる女もあればと思う事もあったが、しかしまだまだその頃にはわたしは孤独の侘しさをば今日の如くいかにするとも忍び難いものとはしていなかった。孤独を嘆ずる寂寥悲哀の思はかえって尽きせぬ詩興の泉となっていたからである。わたしは好んで寂寥を追い悲愁を求めんとする傾さえあった。

 詩興湧き起これば孤独の生涯も更に寂寥ではない。(中略)されば孤独のわびしさを忘れようとしてひたすら詩興の救いを求めても詩興さらに湧き来たらぬ時憂傷の情ここにはじめて惨憺の極みに到るのである。詩人平素独り味わい誇るところのかの追憶夢想の情とても詩興なければいたずらに女々しき愚痴となり悔恨の種となるに過ぎまい。
永井荷風『雨瀟瀟・雪解 他七篇』2014.10.16 岩波書店 参照

 

作品には常に芸術美を

彼は詩を詠んだりする時に「芸術の美しさ」を求めているからこそ「寂寥悲哀」の思いを欲しがっていました。詩を書く上の材料だったからです。作品や詩をつくる立場であったからこそ救われた部分もありますし、辛くても生活で経験した感情を芸術に変えて発信できることに「文学者」としての良さを感じていたことでしょう。

 

 まとめると、

荷風「孤独」という道を選んで寂しさや悲しみを多く経験しました。それを「芸術の美しさ」「情調美」に変えることで彼の文学のあり方は確立され、日本文学として残されたのでした。

大学生活の中で永井荷風の研究に興味を持ち、様々な作品や先行研究、文献を読みました。

そこで得たわずかながらの知識を分かりやすく発信しようと思い、ブログを書いています。