文豪の永井荷風はご存じですか?荷風について様々な視点から紹介します。

荷風と音楽の関係性


性格、思想、趣味、生活風景、作品などなど

荷風「音楽」にも非常に影響を受けていた人物でありました。

彼はどのような音楽に関心があったのでしょうか。。

 


彼といえば、オペラの印象を持つ人々が多いです。フランス留学時に西洋音楽の魅力に引き込まれ、現地では多くのオペラや発表会に通い、日本にはなかった新しい音楽のかたちに感激する日々を送りました。


尺八や筝などの邦楽のみだった日本に、ヨーロッパのクラシック音楽の現状や知識を伝え、ドイツのリシャルト・シュトラウスやフランスのドビュッシーなどの音楽を紹介するなど、日本における西洋音楽の発展に貢献しました。

 

原点は日本の音楽でした

しかし、荷風の音楽への関心は西洋音楽だけではありません。母の影響で幼い時から邦楽に親しみを持っていた荷風は、22歳でフランスの勉強をする前の17歳ごろから尺八の稽古に没頭していました。琴古流尺八家の荒木竹翁から尺八を習っていたといわれています。


1901年は『琴古流の尺八』という小論を書ており、小説では同年に『山谷菅垣』を著しています。「山谷菅垣」は尺八の琴古流古典本曲のことであり、物語の中で登場人物が山谷菅垣を吹いたことによってつけられた題名です。この曲は江戸時代の陰音階でできていて、独特な哀感が印象的です。


他にも『夢の女』(1903年(明治36年))には八橋検校の作曲した筝組歌の冒頭が登場し、『妾宅』(1912(明治45年))には尺八のほかに彼が関心を持っていた三味線が描かれる場面があります。このように荷風は自身の小説の中に尺八や三味線を登場させるほど明治時代の芸術文化に影響されていたことがわかります。

 

しかし、荷風はオペラに出会い、西洋音楽のすばらしさを日本に伝えることが自身の役目であると考えるようになりました。そのようになったのも彼が前から音楽に対して興味を持っていたからできたことです。尺八や筝、三味線や和楽器など日本独特の音楽に親しみを持ち、音楽に対して教養を持っていたからこそ西洋の音楽に興味が湧いたと考えられます。

 

 

大学生活の中で永井荷風の研究に興味を持ち、様々な作品や先行研究、文献を読みました。

そこで得たわずかながらの知識を分かりやすく発信しようと思い、ブログを書いています。