永井荷風の性格はどんな感じ?
性格、思想、趣味、生活風景、作品などなど
永井荷風は孤独な生活を送り、独りでいることが多かったとか。。。
実際、「永井荷風」という人間はどんな性格だったのか、
周りにはどのような人間に見られていたのでしょうか。。
荷風という人間を説明するとしたら、、
自己中心的で、お金にはケチで人嫌い、だけど女の人は大好き、、といった説明がどうしても出てきてしまうのは事実なのです。あまりいいイメージには到底結び付かない言葉ばかり。。
荷風を勉強している中で、ユニークな荷風の人間性には驚かされます。ここでは、永井荷風の生い立ちや性格についてもう少し詳しく話したいと思います。
父の期待を裏切った!?
荷風ははじめから文学者を目指していたのではありません。落語家や芝居の脚本家になろうとした時期もあったようです。
23歳の頃に日本を出て、横浜正金銀行のニューヨーク支店に勤めていました。その後フランスへの憧れからフランス・リオン支店へ転勤。
銀行員としての人生を歩むかと思えば、、、彼は銀行の仕事に向いていないと勝手に辞表を出して帰国してしまいました。
荷風はこの外遊中、銀行員としての自分を磨いたのではなく、文学を一生の仕事とする自分に出会ったのです。
荷風が外遊中に記した日記『西遊日誌抄』(『荷風全集 第4巻』岩波書店 1992.7)
では、
「余の生命は文学なり。課程の事情己むを得ずして銀行に雇はるゝと雖余は能ふかぎりの時間をその研究にゆだねる可からず。余は信ず他日必ずかの『夢の女』を書きたる当時の如き幸福なる日の再来すべきを。余は絶望すべきにあらずと自ら諫め且つ励ましたり」1905年12月8日 との記録がなされています。
荷風はアメリカやフランスの生活や文化に強い刺激を受けました。
荷風の父親は荷風を社会で働く人間として銀行員で働かせ、膨大な額を出してアメリカ支店に行かせたのにもかかわらず、彼が夢見る方向が変わったことに絶望感を抱き、失望。。
しかし、これに関していえば、ただの自己中心人間ではなく、自分の信念を持ち行動した人間として見れるのではないでしょうか。
人付き合いの悪さは異常レベル
荷風はだいたい何でも一人でこなして生きていけました。料理も洗濯も掃除も誰にも頼らないでも大丈夫。。買い物も面倒だけど維持でも弱音を吐きたくない。
趣味も三味線や読書、浮世絵など全て一人でできるものばかりです。
まずは、他人と同じ行動をとる習慣が苦手でした。多くの人が他人の行動を見て、軽々しく同じように真似をする。。そんな光景をあまり好まなかったのでしょう。
家族や親戚に頼ることもなく、作家仲間と仲良くすることもありませんでした。。
彼のような才能ある文学者になると、尊敬して寄ってくる文学者も数しれず。。
文学もろくに知らないのに、荷風とごはん屋の席とかたまたま出会って、「荷風さんにとって文学とは?」という論理にせまる質問をするのはNG!!
全く相手にされず不機嫌に帰ってしまうのであります。もらった名刺をその場でびりびりに破いたこともあったとか。。。
そこまでされたらかなり腹が立ちますよね。。
仕事の話は人前で一切しないというのが彼のポリシーでありました。
しかし、仕事に関係しない気軽な雑談は好きで、男女関係の話とかくだらないような話で盛り上がり、人とすこしの交流はしていたそうです。。
彼のこだわりに迷惑がる人も
彼は二回目の離婚を終えた後、一人で暮らしていたから、外食の機会も非常に多くありました。ここでも荷風のこだわりが満載です。
最晩年、市川の自宅に近い食堂「大黒屋」をよく利用してたそうですが、いつもいつも頼むのはかつ丼と日本酒。
毎回メニューを見て悩むのが面倒だったのではとも言われています。
浅草の「尾張屋」ではかしわ南蛮ばかりだったそう。。
しかも、いつも同じ席にしか座らないらしい。。
他人が座っていると不機嫌になり、他の席が空いているにもかかわらず帰ってしまうこともしばしば。店員には文句をいっていて、
「定員はどれだけ荷風には気を遣わないといけないの!!」と思います。
マイナスイメージになるようなエピソードばかりを語ってきましたが、彼の性格を語るにはこれらが浮き彫りになることも仕方ないことでしょう。。
自分の考えの中で人と接し、日常を暮らしている彼の姿には関心します。